子供たちが起こす事件に関して思う事

自分もそうであったように、子どもは自我に目覚め、与えられた環境の中で様々な知識を得ながら協調性を学んでいきます。
しかし人間ですから、好きなこともあれば、嫌いなこともあります。同様に好きな人もおれば、馬の合わない人もいるでしょう。
相手が悪いのか、それとも自分が悪いのか。
相手が自分に無い物を持っている妬みなのか、本当に欠点があるのか・・・。

全ては、まだ未熟な発達途上の倫理観で善悪を判断をしていくんでしょうか。「自分の思い通り」になる事が「正しいこと」のように判断し、欲求を満たすために、時には徒党を組んで成し遂げようとします。
怒られても、「怒られている」ことが嫌で、その理由が判れば自分が辛くなるから、早くその場から逃れたいためにとりあえず「謝る」ふりをします。
寂しいし、一人じゃ心もとないから、「友達」をつくります。その「友達」も意に反すれば、直ぐに離れるか、自分の「正しさ」を守るために「敵」にしてしまいます。

子ども達はどこで「善悪」を学ぶんでしょうか。家庭、地域、学校、そして社会。子ども達は与えられた環境の中で価値を見出していくんでしょう。だとすれば、今の社会を構成している大人、全員が原因ですね。
「いじめ」の問題もそうですが、子どもたちが起こす様々な事件を通して、本当に反省すべきことに気付かせてあげれるのは誰なんでしょうか。

「教育」「共育」、画一されたものではなく、価値的であり、創造性に富んだ、気付きと学びの環境づくりが急務ですね。でも教育の根本をなす理念、哲学は、今の社会を構成している「偏見」を無くさない限り、たとえ形として出来ても、生かされるとは思えません。
せっかく綺麗な水を流しても、器が汚れていれば台無しです。