「なぜ議会改革は進まないのか・JIAMセミナーを受講して②」

「議会改革」とは何なのか?
なぜ「議会改革」が必要なのか?続編です。

本年度の弥富市議会タウンミーティング(議会報告会)は、日程等が合わない事が大方の理由で中止となりました。
これまで毎年1回、計3回開催してきましたが、回数を重ねるたびに参加いただく市民の人数は減っています。

日取りが悪いのか?
会場が一か所なのが良くないのか?
開催が1日限りなのが良くないのか・・・なんて事も考えた末に、昨年は午前と午後の2回行い、会場も社教センターと福祉センターの2会場で行ったわけですが、参加人数は2会場の合計でも100人を下回りました。

これは、市民の意見を聞くこと、市民との対話を目的に開催しているのだから、そもそも、議会改革の一環で「やる」と決めたのだから、議会の都合で、議会本位で「やる、やらない」を決めるもんじゃないと思っています。

日頃の議員活動では、市民からのご相談、ご意見、ご要望等を個人、または団体等から様々お受けします。街で、とある会場で、偶然出会った時にも「そう言えば・・・」とお声がけをいただくこともあり、弥富市には、個人的なご意見であったとしてもそれは「地域のため」「市のため」に考えて下さってる方は多くいらっしゃいます。
それらは市の財政からインフラの事であったり、子育ての事であったり、防災の事であったり、医療から福祉全般にわたり、市民生活に直結する貴重なご意見です。

そういった様々なご意見を収集し、議論し、いかに市行政に活かしていくのか、これも代議員たる市議会の重要な役割の一つです。

問題はそういった声をいかに聞き、いかに収集していくのか。

議会報告会も手段の一つではあります。市民の皆さんは日常の生活があり仕事もある訳ですから、様々なご都合で参加できないことも考慮し、市議会からもっと積極的に住民自治の最先端、コミュニティの集会や子供会、PTA、福寿会、ボランティア集会等々、住民の皆さんが参加される集会には「何か問題はございませんか」と積極的に働きかけること、出向してでもご意見の収集、対話を求めていく事が大切だと思います。

地方議会は「執行機関の長」弥富市で言えば市長と、「議事機関・議決機関」である市民の代表者、議員とを共に市民が選挙によって選出する二元代表制です。

この二つの行政機関は対等であり、市民生活を守り、市の発展のために車の両輪となって働いていかなければなりません。

議員においては市行政が正常に円滑に効率よく行われるよう責任をもって常に監視し、「議決」していくわけですが、何をもって「賛成」とし、何をもって「反対」し、どう改善していくべきか、論拠を明確にし、その基は「民意」であり、法律にかなった判断を示していかなければなりません。

複数人で構成される議会は、多様な「民意」を集約し、議論し、議決したならば、議決事項を優先し、後に改善を求めることがあっても、速やかな執行を促し、市民に対して説明責任を果たすオピニオンリーダー的な役割も果たさなければなりません。

そのためにも議会は常に市民と向合う、その接点を多く広く持っておかなければ、その責任は果たせないのだと思います。

さて、「議会改革」とは何なのか?なぜ「議会改革」が必要なのか?との課題で書いているわけですが、私は今回のJIAMのセミナーに参加する際、それは「課題が共有できなければ議論も進まず、可決もできないのではないか?」との仮説を持って参加しました。

弥富市議会も毎月の議会改革協議会を開催し、その都度の課題を議論し、形式的ではありますが、前号にも書いた通り、表面的には少し進んだようにも見えます。でも実感として何が変わったのでしょうか?市民との相互的な信頼は深まったのでしょうか?

私は何も変わっていないように思います。

講義を受けた早稲田大学マニフェスト研究所の中村事務局長のお話の中で、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルの「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」との言葉が引用されました。

多様な「民意」をいったんは集約した時、その中で最善を合議により導き出されればいいのですが、最終的には多数決により議決する場合があります。
この時、多数派の選択した方が採択されるわけですが、少数派が決して「悪」なのではありません。どちらかと言えば多数派が選択した方が「優れている」という事だと思います。
全会一致というのもありますが、これも議案が出された背景によっては選択肢が他になく、現段階では「最良」だとの判断と言える場合もあります。

多数決は、多様な意見が出された場合、全体を考えて、多くの人の意向をくみ上げようとするシステムですが、これには「そもそも」があると思います。

例えば、10人の議会があったとして、その街にある事象が起きたとします。それは後々に多大な影響を及ぼす事であったとしても、そこの住民も、その10人の議員も「問題」にしなければ議論にならないわけです。
仮に2人の議員が問題提起したとしても、のこりの8人で否決したら同じです。
この場合、多数派の選択は「正しい」でも「最良」でもないということになります。
またこの時、多数派に支援関係から資本の力が作用していたとしたら、「正しさ」はどこにあるのでしょうか?

普通に「悲しいことは悲しい」「嬉しいことは嬉しい」「正しいことは進める」「悪い事は改める」といったモラルというか、一定の倫理観があってこそ初めて民主主義は機能するのだと思います。

これが暮らしの土台となる政治に関して、より良い住民自治を進めて行く上では「選ぶ側」も「選ばれる側」も持ち合わせておかなければならないのだと思います。

「問題」を問題として捉えられなければ「改革」は進まないのです。

地方創生に向けた「地方版総合戦略」の策定が各自治体で進んでいますが、多様な民意の代弁者、執行の議決責任のある議会がどのように関わるべきなのか。

次回は、セミナーで学んだ先進市事例をご紹介しながら考えてみたいと思います。