「あえて言う『後期高齢者医療制度』は絶対に必要だ」<5>

「あえて言う『後期高齢者医療制度』は絶対に必要だ」<5>
櫻井よしこ(週刊新潮:2008/7/31)

「医療は文化そのもの」
こう語るのは、病床数18のいずみクリニック院長の横内正利氏である。
氏は東京大学病院第三内科勤務の後、大阪府の国立循環器病センター及び都内の浴風会病院勤務を経て、9年前に東京・羽村市のいずみクリニック院長に就任した。日々、多くの高齢者を診察し、一人ひとりの患者を継続して診てきた経験から、人間の生と死に向き合う医療こそ、その国の人々の文化そのものだと強調する。
「けれどいま、日本の文化そのものが変わりつつあります。病院と医師の在り方も含めて、大きな変化の中にあります」
氏は、このままでは、小児科や産婦人科と同様、高齢者医療から離れる医師が出てきても不思議ではないとまで語る。
議論を呼んでいる後期高齢者医療制度問題の背景に、社会と文化の変貌があるのは確かだ。問題は、私たちがその変貌に対応しきれているか否かである。
たしかに、1950年代当時、親子二世代が支え合い、国民の8割強が自宅で家族に看取られて息を引きとった。圧倒的多数の日本人が自宅で自分の人生を終えたいと願いながら、しかし、社会は徐々に変化を遂げ、いまや病院で死亡する人が8割を超える。自宅での看取りは顕著に減少したのだ。
「病院で8割を超える人が亡くなる日本は異常ですが、しかし、自宅で人生を全うしたいと願うのは、米国人もヨーロッパの人々も全く同じです。ナーシング・ホームで暮らすお年寄りも、皆、そう願っています」
こう語るのは21年間、海外の介護、医療事情を視察してきたハンディネットワークインターナショナル杜の春山満代表だ。
「文明の発達で、私たちの生活は変化し、大家族は少数となり、子どもの数も減っています。年老いた両親を世話したくとも、手が足りないのです。これほどの先進国も直面する問題です。だからこそ、私たちは自分の人生をどう完結するのかを、自分で考えなければならないのです。欧米諸国は狩猟文明の伝統を受け継いでいるからでしょうか、人々は自立を重んじ、老後も基本的に自立して過ごそうとします。
日本はどうでしょうか。後期高齢者医療制度をめぐる論議を見ると、人間の生と死、高齢者医療にまだまだ、本当の意味で向き合っていないと思います」
横内院長も、もはや自宅での看取りは増えてはいかないと予測する。戦後日本の変化は、すでに家族制度の揺らぎと崩壊をもたらしたのだ。核家族が増え、親を最期まで世話することは、多くの人々が事実上、無理だと考える。「家族」の価値観が変わったのと同様、一人ひとりが最期の日々をどう生きるか、という価値観も変わってきた。
在宅医療で約800人の高齢者を見守ってきた新宿ヒロクリニック院長の英裕雄氏は、日本人の生き方から〝大往生″が消えつつあると語る。
「年齢に応じて体力が弱り、足腰が立たなくなり、認知能力も後退し、やがて食も細っていく。呼吸が緩くなり血圧も低下し、寝ている状況が続いて自然に亡くなっていく。これが大往生です。昔はこの自然状態で最期を過ごさざるを得なかった。しかし、医学の進歩で、私たちは自然衰弱のプロセスを必ずしも、辿らなくなりました」医学の発達が医療に対する国民の期待を高めたのは、自然の成り行きだった。問題は医学の発達や文明の進歩、そして他のどの国よりも速いペースで日本に生じた高齢化社会に、私たち自身の意識改革がついていっているのか否かだ。
たとえば、前述の横内院長は、「かつて、入院したお年寄りはよく褥瘡(じょくそう・床擦れ)にかかりましたが、いまでは寝たきりになっても褥瘡は出来にくくなりました」と語る。続いて、「口腔ケアの普及で誤嚇性肺炎にも罹りにくくなりました。胃ろう(胃に開けた小さな穴から直接栄養を注入する方法)によって栄養状態がよくなり、要介護状態になってからの余命が飛躍的に延びました。ただ生き長らえるだけではなく、元気になれる。まるで時間が止まったかのごとく、長く生きられるようになったのです」とも語る。

1万1000台以上のCT

横内氏は休日返上で患者を診ている誠実な医師である。しかし、そんな誠実な医師でさえ、お年寄りの入院患者を苦しませる裾瘡についての認識は十分とは言えないのだ。
春山氏が指摘した。
「お年寄りが入院すると褥瘡にかかり易いと言うのは、ひとえに看護師をはじめ病院側の怠慢なのです。褥瘡がどのようにして出来てしまうかを認識せず、それに誠実に対応しないからです。高齢化時代の医療で褥瘡を作るのは、もう失格なのです。日本の医療がこれまでいかに高齢者医療にきちんと向き合ってこなかったかを窺わせるのではないでしょうか」
近代医学の発達、寿命の延び、家族制度の否定や個人主義の尊重などは、程度の差こそあれ、豊かになった国々全てが体験する。ここで私たちは、どこまで現実を見詰めることが出来るか、自分なりの人生を歩めるか、試されるのだ。課嶺から逃げることは、誰も、出来ないのである。
同じ先進国でも、日本の医療はもうひとつ、他国と異なる事情に直面する。GDPの約1.7倍に相当する膨大な額の公的債務残高である。東京医科歯科大学大学院教授で医療経済が専門の川渕孝一氏は、日本人1人当たり660万円以上の借金を抱えるなかで、将来の医療体制を考えなければならないことの深刻さに、特に留意すべきだと強調する。
「巨額の財政赤字を抱える一方で、私たちは医療費の高騰、未曾有の少子化高齢化社会の到来という三重苦の下で、医療のあり方を考えなければならないわけです」
生と死に関わる問題において、絶対的に正しい制度はあり得ないのだが、それでも、私たちは、医療制度の行き詰まりを打開するための合意を形成し、実行しなければならない。そのために、日本の医療の特徴をふり返る必要がある。
日本の医療で特筆すべきは、なんといっても、先進7カ国中、GDP比8.2%という最も低い負担率で、先進諸国にも例のない国民皆保険制度を維持し、比較的高い医療水準を保ってきたことだ。
医療水準の高さのひとつの基準となる高度医療機器の事例で言えば、日本はCTやMRI保有台数世界一である。
東京大学医学部放射線科教授の大友邦氏は、日本では、もはや、CTやMRIの普及ぶりは、それらを高度医療機器と呼ぶのが憚られるほどだと指摘する。
07年8月1日時点で、日本に設置されているCTは、64列(スライス)の機能をもつ582台のCTを筆頭に1万1000台を超える。
価格は、メーカーによって多少異なる。64スライスのCTは最も設置台数の多い東芝メディカルシステムズの製品で定価が1台19億円。
一方、マルチスライスでは最も少ない2スライスのCTも設置台数900台を超え、こちらは1台2億円から5.3億円だ。実際の売買は〝5割引きの8掛け″と言われる程の値引きがある。それにしてもかなりの高額機器だ。

安価で低機能の普及版
CTではⅩ線検出器の列数が多いほど一回転で多数の画像が撮れる。
ヨーロッパ諸国での設置台数は日本よりはるかに少ないが、列数の多い高性能のCTが主流である。
対して日本では、高性能のものと性能の劣るものが混在し、高性能のものが相対的に少ないのが現状だ。
設置台数8300余のMRIでも、同様の傾向が見られる。
大友教授が語る。
MRIの場合、性能は磁場の強さ、つまりテスラに比例すると考えればよいでしょう。テスラの数値が高いほど、詳細な画像が得られます。欧米での国際標準値は1.5テスラ以上と言えますが、日本にはまだ低いものも多いのです」
設置台数の多さゆえに、日本の医療は先進医療だと考えてはならないわけだ。この状態を、外資系の医療関係企業の首脳は、「日本は安価だが低機能の普及版を多く置いている感じ」と、評した。
トップクオリティの医療ではないというわけだ。川渕教授はこの状況の背景に、医療の質を上げるインセンティブを設けない厚生行政があると指摘する。
国民皆保険は一物一価の原則です。どの病院の医療も同質、同水準という前提で、保険点数は同じです。しかし、医療機関によって医療の質に差があるのは当たり前です。国民がそのことを実感し、医療格差を意識するからこそ、病院格付けランキングの特集記事や本が売れるのです」
優れた病院も医師も、二流、三流の病院や医師と同列に置かれてしまう。
健全な競合を許さない体制の下では、医師の側にも医療の質を高めるモチベーションは生まれにくい。代わりに病院やクリニックは患者を引きつけ、売り上げ向上のためにも、目に見える特典としての高度医療機器などの導入に走るのだ。
斯くして広く普及した高額機器、それらを用いての医療であるにもかかわらず、他の先進諸国に較べて、日本の医療水準がとり立てて高いわけではないというのだ。
だがその代わり、比較的安価に提供される。
大友教授の説明である。
MRIで短く普通の頭の検査を行った場合、日本は2万円弱で済みます。他方、外国では保険や病院の種類、医療の質によってまちまちですが、一般論では、フランス、イタリアで約5万円、米国で6万3千円、ドイツでは7万4千円です。
CTスキャンも同様で、日本は1万1千円ほどで済みますが、米国では約2倍の2万8千円、ドイツでは日本の約3倍かかります」
検査費用は欧米のざっと3分の1。大友教授が日本の画像検査の安さを示すエピソードを語った。
「画像検査では、国境を越えての遠隔診断が盛んです。米国で撮ったCTやMRIの画像を医療費の安いインドに送り、画像診断専門医に診てもらうのです。インドの専門医は米国の注文を引き受けても日本の注文は嫌がります。1回あたりの報酬が安すぎて敬遠されているのです」
だが、多くの人が容易に、そして廉価で検査を受けられるのは、たしかに日本の長所である。これを医療における経済効率から見ると一体どうなのか。
川渕教授は、医療界は医療費についての説明責任を果たしてこなかったと強調する。
負担増を訴えるなら、それによってどれだけ医療がよくなるかを証明しなければならず、そのためには医療効果の「可視化」が必要で、その一例がCTとMRIだというのだ。
「病院可視化ネットワーク」に参加する65病院を対象に調査した結果、その効率の悪さは驚くべきものだった。
「試算ではマルチスライスCTは309件、MRlは218件が月間採算分岐点となりました。それを踏まえると、全体の3分の2の病院がCTの稼働件数で分岐点を下回り、MRIでは分岐点を超える病院はゼロでした」
折角の高嶺機器が十分に活用されていないのだ。調査はしかし、入院患者に関してのみ行われた。
通常外来のMRI稼働件数は入院患者の3〜4倍とされる。
そこで川渕教授らは便宜上5倍の設定で計算し直した。
「それでも全体の4割が分岐点に及びませんでした。こうした病院は、果たしてCTやMRI装置が本当に必要なのか、再確認する必要があります」
再確認の必要性は個々の医療機器にとどまらない。日本の医療の根本を問わなければならない。
ドイツや英国など欧州諸国では、病院の約8割が公立で、限られた医療予算を効率的に使うことが最重要課題だ。そのために、医療機器も含めて、選択と集中を進めてきた。
だからこそ、設置に多額の予算が必要なCTやMRIも設置台数が制限されている。設置された機器はまさにフル穣働する。医療の集中化である。
繰り返すまでもなく、これら欧州諸国では、消費税をはじめとする税は日本よりはるかに高い。高負担の下でも、医療の集中化によって無駄を省かなければ医療制度は維持出来ないのだ。

消えていく小規模病院

対照的に日本の病院は約8割が私立病院で、医療機器の設置も自由だ。小さな町の総合病院にも高度医療機器がある。税負担は相対的に軽い。
このような国は世界中で日本だけだと春山氏が語る。
「ちょっとの動悸や頭痛でMRIを撮る。そんな診療は欧州ではあり得ません。お金と医療の根本に正しい管理があります。無駄な検査は排除されます。一方、日本では気軽にMRIなどを使います。そうすれば患者が安心するからです。本来は掛かりつけ医のいるクリニックで聴診器やエコーでプライマリーケアは出来るのです。そこで疑問に思う症状があれば、総合病院に紹介し、MRIやCTを使えばよいのです」
氏は、たとえ医療費が無尽蔵であっても、現在の日本の医療における無駄遣いは許し難いと憤る。
「事はおカネの多寡ではありません。日本の現在の医療の仕組みそのものを正していかなければ、本当に、国民皆保険制度もその他の医療保険も潰れていくのは避けられないでしょう」
いずみクリニックの横内院長は、後期高齢者医療制度は、医療費抑制という金勘定ありきの発想で導入されたとして、反対の立場だ。それでも、「長期的に見れば、今のままの医療制度は無理だ」と警告する。
川渕教授は、漸減しつつある病院数のなかで、とりわけ顕著な小規模病院の減少は厚労省の狙いどおりだと述べる。
「65歳以上の高齢者が人口の半分を超えるような限界集落から病院が消えれば住民の選択は2つにひとつ、病院の近くに越すか、覚悟してそのまま暮らすかです。病院だけでなく、シャッター通りの地域からはいろいろなものが消えていきます。私たちはこうした状況に立ち向かわなくてはなりません」
一見、高度な医療水準を保つ日本。しかし、よく見れば、医療の質は本当に高いのか。疑問である。現在の日本の「ベターツと薄い医療体制」を変えることなしに、医療費を他の先進国並みにGDPの10%、或いはそれ以上に引き上げても意味はないのである。変えるべき点を変えたうえで、はじめて、医療費を現行のGDP8.2%以上に増やしていくのが正解である。変えるべきことの第一歩が、不完全な形ながら後期高齢者医療制度に示されている。