防災意識を命に刻む1日に

公明、学校など耐震強化策に全力

阪神・淡路大震災14年

 
丸14年目の朝を迎えた。6400人以上が亡くなり、約25万戸もの建物が全半壊した阪神・淡路大震災。記憶の風化がささやかれる中、改めて「あの日」の惨状に思いをはせ、新たな祈りの中でその体験と教訓をかみ締めたい。その行為がそのまま犠牲者の霊に報いることになると信じつつ――。

 1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路地域を襲ったマグニチュード(M)7・3の大地震は、それまで信じられてきた「防災先進国・日本」という神話を一瞬のうちに打ち砕いた。全犠牲者の9割近くが建物の倒壊によるものと分かり、地震列島の“備え”は極めて貧弱であることが白日の下にさらされたからだ。

 「建物が耐震補強されていたら犠牲者はずっと少なかったのに」。悔いと慙愧の念を伴って、人々は“備え”の大切さを改めて思い知らされたのだった。

 この教訓にいち早く学び、震災後、建物の耐震強化策を果敢に進めたのが公明党だった。「自然災害である地震は防げないが、被害を最小限に食い止めることならできる」(太田昭宏代表)との考え方に立って、耐震診断や改修工事への公的助成制度の拡充に全力を注ぎ続けた。

 とりわけ、党の総力を挙げて取り組んだのが、中国・四川大地震岩手・宮城内陸地震などでもクローズアップされた学校施設の耐震化事業の推進だ。

 「次代を担う子どもたちの安全確保なくして地震対策はあり得ない」(太田代表)として、昨年6月には改正地震防災対策特別措置法を成立させ、学校施設の耐震化を加速する基盤づくりを実現。現在、国会で審議中の今年度第2次補正予算案にも、学校耐震化の促進を盛り込ませた。全国で約6割にすぎない学校耐震化率が今後、一気に上昇するものと期待される。

 無論、未曾有の被害を出した「阪神」の教訓は、学校の耐震化だけにとどまらない。住宅や病院の耐震強化、地震研究の水準向上、観測網の強化など、なお多くの課題が山積している。


「備えあれば憂いなし」

 なかでも憂慮されるのが、震災直後には全国津々浦々で盛んに語られた「市民防災意識」の退潮だ。神戸市などの被災地でも、震災の面影が消え、美しい街並みが戻ってくるにつれて、「備えあれば憂いなし」の心構えは年々薄れ、災害への関心も急速に低下しているという。

 これでは、せっかくの耐震化や地震研究の成果、一昨年から始まった緊急地震速報のシステム強化などの対策も、十分に効果を発揮できない。最大最強の地震対策ともいうべき個々人の防災意識の向上が改めて問われている。

 折しも14年目のきょう、現地では早朝から多くの人々が集い、追悼の式典や防災を考える集会などさまざまな催しが行われる。記憶の風化に抗うこれらの人々と心を一にし、私たちもまた、自身の命の中に「防災」の二文字をくっきりと刻み込む一日としなければならない。
(公明新聞:1月17日)

14年前の今日、私は夜中の2時過ぎまで大阪にいた。職場の同僚のお子さんが亡くなり、通夜の後、落ち込む彼を慰めていた。朝早くから名古屋で仕事があるため弥富には午前4時過ぎに着いて5時前くらいに仮眠しようとしたが、なかなか眠れなかった。ウトウトしていたら凄い揺れを感じ飛び起きた。震度3だったか、気になってテレビをつけると「関西で大きな地震発生!」とテロップが出ていた。びっくりして嫁を起こし、大阪の実家に電話したがつながらない。時間が経つにつれ震源と被害が神戸に集中していることがわかり、今度は得意先が心配になった。既に担当ははずれていたものの、お世話になった方々が大勢いたからだ。結局、母と連絡がついたのが夕方だった。
弥富市の人口とほぼ同数の方々が負傷され、6400人以上の方が亡くなられた。幸いにも私の得意先や知人は負傷されたが無事だった。状況を聞くと「ドーン!と下から突き上げられた感じだった。その直後に足や背中に激痛が走った」だそうだ。まさに一瞬の出来事だ。その方々から「家具はしっかり止めとかなあかんで!ほやけど倒れてくるもんがある部屋で寝たらあかんで」と教えていただいた。
亡くなられた方々のご冥福を祈ると共に、身体的にも精神的にも後遺症と戦われておられる方々に心からお見舞い申し上げます。
「天災は忘れたころにやってくる」とは寺田寅彦氏の言葉。今一度、家具等の点検、避難場所の確認、家族との連絡網の確立、ご近所との連携等々、「備えあれば憂いなし」もう一度、再点検を!